オーストリアに着いて四日ほど経った

労働3日目が終わった。今は夜23時ほどである。今回は思いつくままにだらだら文章を書く。まだ数日だが日本語を話さなすぎて日本語が下手になったかもしれない(?)。

 

生活について。生活はそこそこ快適。水道水は飲めるし食べ物は美味しいし、五月の気候は穏やかで程々に涼しいし、治安は良いしで*1。まあ比較対象はロシアだからあまりあてにならないかもしれない。スーパーの商品の表示言語は全てドイツ語だから、段々と覚えた方が良さそう。今はスーパーの店員を捕まえて聞くしかない。

寮に着いてから、他の外人と誰とも話せないコミュ障ぶりを発揮していたが、洗濯の仕方も流石にわからないと困るから住民に教えを請うたり、またドラムを練習していたらイラン人の留学生生が話しかけてくれてコミュニケーションを何とか取った。我ながら大きな成長である。基本的に寮の住民は大体英語が使えるぽい、ありがたいぜ。自分から話しかける努力を少ししてみようと思う。

寮には音楽専用の防音室が二つあって、一つ目にはピアノが、二つ目にはドラムだったりアンプが置いてある。時たまピアノを弾く人を見かけるんだけど、マジでドラムを叩いている人は見かけない。ということでドラム叩き放題である。先月買ったモニタイヤホンが耳栓代わりで非常に役に立った。あと今日それっぽくフォービートが叩けるようになって感動した。

因みに先日無線LANルータを安く譲って貰ったのだがセットアップしてもインターネットに接続できない。What'sAppのグループで同じような症状の人を見かけた、大家に聞いてもろくな返事が返ってこない、端的に言ってクソである。とは言えインターネットは少し制限されてるぐらいの方が精神的に豊かになるのかもしれない。

 

次に労働について、三日ぐらい経って大分職場の雰囲気が掴めてきた。エンジニアチームは結構国際色溢れてて、出身国はエジプト、アラブ首長国連邦、アルゼンチン、メキシコ、アルメニア、ポスニアヘルツェゴビナ等々と多岐に渡る。オーストリアの一企業がどうしてここまで国際色溢れる人材を採用できたか甚だ謎だ。ただここまで国際色豊かだと、コミュニケーションはもちろん英語で行われるし、ドイツ語を殆ど職場で使わなくて済む(たまに出てきて困惑する、これを機に勉強でもしてみるか)。

 

基本的に社員皆めちゃくちゃ英語が流暢で驚いている。自分なんかしばしば聴こえなくなるときもあるし、言葉もよく詰まるというのに。。日本人代表として少しは頑張ろうと思う(そういえばリンツで日本人をまだ見かけていない)。

 

とは言え仕事のコミュニケーションは耐えることが多い。技術的な話は不思議とそれっぽく聞こえるし、通じないときでもテキストベースの資料を作ってそれを元に話せば通じる(気がしている)。そう考えると殊エンジニアにおいては、いざ現地に行ってみたら案外何とかなるのかも知れない。ただ仕事は何とかなっても、日常生活でコミュニケーションが取れないのはしんどい。これは努力で解決するしかない。

あと職場が結構ホワイト。朝9時前に出社して殆どが5時前に退社している。CTOであっても帰宅も同じぐらい早くて驚いた。雰囲気が良く皆でランチを取ったりするし、日本でのコロナ前のインターンを思い出して涙が出た。因みに雑談を聴き取るのは一苦労。良くわからないことの方が多い。これも慣れるしかない。

あとセキュリティ教育が厳しい。GDPR(EUデータ一般保護規則)のせいか色々ドキュメントを読まされるし、理解を確認する場も設けられる。

 

ところでオーストリアって音楽のイメージが強いし話を聞くと音楽教育に力は注がれてるが、皆が皆楽器を弾けるわけでは無さそう(そりゃそう)。これは海外の人が、日本人は毎日寿司を食べてるんじゃないか思うことと同じぐらいの誤解かもしれない。サッカーが好きな人は多そうで、サッカーの話ができると話題として便利かも(というかグローバルな人たちと話すときの話題としてそもそも強い)。因みにラグビーは全然盛んじゃないらしい、悲しい。

 

そういえば昔ほど貴重な時間を一生懸命使おうという意識だったり焦りがなくなってしまった。なるようになると思えることは精神衛生上非常によろしいんだけど、逆に何かに飢えて狂った努力をすることができなくなったことを意味するのかも。まあ6カ月と時間は長いから程よく持ちこたえようと思う。段々と仕事に慣れてきたら遊びにでも行こうと思う。

 

続く。

 

 

*1:とは言え通勤してる女性にだる絡みしてる飲んべえはいるし、公園でドラッグが売られてたりはする

コロナ禍の飛行機、快適かもしれん!

オーストリア行きの飛行機に乗り込んだやぱったです(このブログを公開している頃にはドーハでトランジット中らしい、飛行機で衛星Wi-Fiが使えると謳われたものの永遠にサービスは利用不可能だったし機内サービスでインド映画を観るぐらいしか暇を潰す手段がなかった、段々英語を追うのに疲れてすやあと気持ち良く眠ってしまった)


飛行機に乗り込むまでは不安と期待で宙ぶらりんになってたけど、友人が成田空港まで見送りに来てくれて元気を貰った

同時に空港で自撮り棒を買わされたりした、これはもしかしたら将来大物配信者になる伏線かもしれない

 


ところで成田空港の中はびっくりするほど閑散としていて体感8割以上の店が閉店しているし、けどその少数の店自体はそこそこ混んでいて食事を摂るのに人々が並んでたりする

 


チェックインなんかは凄く快適で、最後に海外渡航した二年前(もしかしたらもっと前かも)に比べると全然人が並んでいなくて、驚くほど早くチェックインが終わって驚愕した

 


飛行機の中にも影響が及んでいて、ガラガラで左右に誰も座っていなかったりする人たちが多くて、席四つを専有して横になっている人がいたりでコロナ前なら絶対に見られない光景である

 


かく言う自分も左右に誰も座っていないから荷物を置き放題だったりする、ありがたい!

これ逆に機内に楽器を持ち込むバンドマンだったりは、一応機内持ち込みのために席を二席買わなければならなかったりで損した気分になるのかな、乗ってみたらどうせ誰も座っていないからそんな二席なんて考えなくて良かったじゃん!二倍お金払っちゃったよ!と

 


搭乗時間が同じぐらいの人生初の海外渡航モスクワ行きのフライトなんて、席は狭いし、隣に人は座ってるわで非常に窮屈な思いをしたけど、今回は段違いで快適だった、同じエコノミークラスでもここまで変わるものなのか、悔しいがコロナ渦に感謝しなければならないようだ

渡航準備向いていない

海外渡航に向いていないんだとひしひしと感じる。

荷物の準備も永遠に終わらないし、何を持っていけばいいかわからなくなるし、ビザの申請も一回失敗して再申請しなければならなかったし!


目の前の準備から逃れて、本屋にでも行ってしまいたくなるし、面白そうな本を読んでいたら気づいたら一日終わっているし。


本当に面倒くさいのだけれども、どうやら自分は同じ場所に長く居続けたら退屈になってしまってここじゃないどこかを求めてしまうし、それで興味の赴くままに行動してしまっていて、気づいたときには面倒くさくなるのだけれど後にも引けなくて、惰性で後始末せねばならなくなってしまう。


準備をしているときなんかすごく憂鬱で、果たしてあっちに行ったとき言語は通じるのだろうか、きちんと入国できるのか、仕事でクビにならないかとか永遠に雑念が湧いてくる。憂鬱で心配だけれど、別に根本的な原因を解決するほど勤勉でもなく、目の前のことが嫌になって普段絶対しない先祖のお墓参りでもしてしまう始末なのである(先祖に謝れ!) 。


先祖に頼ったからと言って何か準備が進展するわけでもなく、そこじゃない!、と気づいて夜になって急に思い出したかのように手続きを頑張る。そして、ヨーロッパ時間だとまだ全然営業時間だからオッケーなのだ!と開き直る。 開き直るんだけど、英語でメールを送ろうとした途端面倒くさくなる。送らねば向こうに行ってさらに苦労するのだぞと、もうひとりのやぱったが耳元で囁くのだが、彼の囁き虚しくTwitterを見始めてしまう。ネットサーフィンに飽きてやっとメールの返信が完了する。時計を見たら夜の三時ぐらいになっている。ヨーロッパ時間だとまだ深夜じゃないのだ!と開き直って再びネットサーフィンに精を出す。


ダラダラそんなことをやっていても、時間は無慈悲に過ぎていくし、神様、仏様、なぜ我に七難八苦など与えたもうたのですか?と問いただしたい心境である。ただ書いてから気づいた、勝手に辛いのだと思い込んでいるだけで、いざ渡航してみたらこれは氷山の一角に過ぎないことに気づくのだろう。


 多分あっちに行ったらもっと面倒くさいことが起きるだろう。ただ生活のために面倒くさいことでもやらねばならぬと腹を括ると楽観している。果たして自分が見込み通りなのか見込み違いなのかは行った後の行動次第だが、どちらにせよ何か必死になって頑張っていたら文章のネタになるのでまあきっと大丈夫だろう。 ダメだったら多分日本に帰っている。そうしたら惨めな僕に誰かご飯でも奢って下さい。。。

物語に酔えなくなってもできる仕事ぐらいがちょうど良い

以前書いたこれに対する裏テーマのような記事。

yapatta.hatenablog.com

 

 

最近、大きな物語への陶酔から覚めたとしても、その分野で働き続けて大丈夫だと思える仕事に就くぐらいがちょうど良いような気がしてきた。

 

多くの人達は物語に完全に酔っていなくても酔ったふりをして、バランス感覚を持って生きている。どこかで冷めているけど、それをやった方が社会的に有利な立場で居続けられるってのを身体で理解している。何ならあまり考えないようにしている。

 

「私は御社でこのようなことをして世界に笑顔を届けたいと思っています!」と書いているエントリーシートを見てしまった。その職種から世界に笑顔を届けるには論理が飛躍しすぎていると思うし、どのぐらいの人が本気でそう思ってるからわからないけど彼らなりに物語を作って世界に取り込もうとしている。

 

一方僕なんかもっと愚かで正直だから、物語に酔って一生懸命やってるうちは本気で世界に笑顔を届けようとすら思ってしまうわけだが、急にトカトントンという声が聞こえて自分がやっていることが空虚に思えてしまう。そして過去の持論を撤回して、メタ的な視点を持ったかのようにインテリぶってしまう。ただ個人というものは矮小であり、結局社会の歯車として動き続けてる分には大なり小なりあまり変わりがないのである。

 

自分はそんな感性を持ってしまっていて、今さら向き合い方なんてものを変えることも難しいから、ハテどうするべきかと悩んだ。自分が乗っかかる物語を失った状態でも、どんなに空虚に思ってても、生活するためにお金は稼がないといけない。組織に属するのだったら組織の物語に曲がりなりにも同調して面従腹背であろうと利益を上げる必要がある。あらゆるモノが資本主義化する世界に反旗を翻して、脱成長を掲げてコミュニストに転じても良いわけだが、そんなことをしてもちっとも自分の生活は良くならないし、幸か不幸か自分はその思想を押し通すほど物語に陶酔できないのだと思う。またトカトントンという声が聞こえてきそうだ。

 

となると自分なりの折衷案として、物語に酔えなくなっても惰性で努力できることを仕事にするぐらいがちょうど良いような気がしてきた。自分は操作主義的な自己啓発には嫌気がさしてしまったし(自己決定論、自己責任論ってものに染まった時期もあったが、それは案外決められた個人、周りのかのパラメータ上で踊らされているだけかも知れない。ただ強者達に都合が良い理不尽ゲームとも言える。)、とは言え社会的に自己決定論の恩恵を受けている方だし、社会変革を願って活動家になるほどのエネルギーも持ち合わせていないから、現実のそのようなルールに惰性で従うのである。現状に違和感を抱きながらもそこそこ有利な立場にいる宙ぶらりんな存在だ。

 

物語なんか無くなっても利害関係で動く世界ならまだしも、物語を作らねば成り立たない業界なんてのもある(具体的な話をしてしまうと自分が吊し上げられてしまう気がして恐ろしい)。まあ、ある行為が変に高尚なものへと祭り上げられてしまっているのだが、逆に偽善のような物語で人を従わせなければ成り立たない裏返しにも思えてくる。とは言え押し付けられる物語を理解しながらも、自分が今ここで向き合っているコト自体が楽しかったら全然その業界に居たい。楽しいと思えることは貴重だ。問題は自分にそんなポストが充てがわれるかどうかという話だが。

 

まあとにかく、陶酔できなくてもその物語の文脈を掴み取って、利害関係に合う接点を見つけることが一番生きやすそうだ。生活するために多少目をつむるのは仕方が無い。

 

最後に僕は物語を作り出して周りを巻き込める人に本当に敬意を示したい(それが悪い方向に進むとサリン事件のようなモノが起こるから注意は必要だが)。世の中を変えたり何か一つの分野で大成する人たちに抱く(安易な)イメージと多少の実感。逆に自分には無理なのだろうと半ば諦めている。どうしても途中でトカトントンしてしまう。自分ができることなぞ、物語の文脈を汲み取って皮肉るぐらいだ。

 

 

 

俺は異国の地で働くのに寝そべり主義者宣言を持っていく

半年ものインターンシップをしにいくのに、どうしてそんな反資本主義的な本「寝そべり主義者宣言」など持っていくのだろうか。

一見すると大いなる矛盾である。せっかく自らをプロレタリアートの地位へと貶め、目の前の労働に没頭する決心がついたというのに。

ただだからこそ持っていくのである。

自分は怖いのだ。労働者としての価値を自分の価値だと思い込んでしまうことが。

そもそも、言語も不自由、労働力も新卒のそれ並みという何の特殊技能も持たずに異国の地で働くのだ。転生もので無双するのとはわけが違う。

資本家に対して圧倒的に不利な立場であるのは言うまでもなく、また慣れない環境で自信を失うことも多いだろう。

また周りには見知っている、心を通わすことができる人間もいないときた。

そのような状況で自己肯定感というものが徐々に削られていき、さらに労働という環境に長時間身を置くにつれて、まるで自分の価値が労働力であると錯覚することが容易に起こりうる。労働者として価値は自分の一側面でしかないのに。

そこで事前にバランスを取ることが重要だと考えた。別に労働者としての成果を上げることに拘らなくて良いと、操作主義*1に陥りすぎずに内側は保守*2でいいのだと。 そこまで無理をしなくても生きていけると。

実際俺は怖い。内なる操作主義に陥りすぎて、自我も美意識も失って自分というハードウェアがジャックされて全く異なるOSが載ったかのように振る舞ってしまうことが。留学から帰国後自我などを失い留学先の文化を全肯定するような、拷問でも受けて精神ぶっ壊れた?みたいな感じ。

滞在期間は6ヶ月であるが、自分自身6ヶ月フルタイムで労働なぞしたことがないから、持続可能な労働をするためにも状況に飲み込まれすぎないのを意識するぐらいが丁度良いのである。


そこで寝そべり主義者宣言に白羽の矢が立った。最早労働を放棄して中国も西側も関係なく全方面に喧嘩を売るぐらいラジカルな本が丁度良いのだ。 幸か不幸かまだ自分は寝そべって生活したいと思うほどには西側の資本主義を嫌悪していないが、染まっていなかったとしても自分の生活を相対化するのに役立つ。

一見するとラジカルな本に取り憑かれたように見えがちだが、自分にとってそれは賢明な選択なのだ。

逆に中立を自称していながら内面的には全く学ぶ姿勢がない方が恐ろしい。 よっぽど自分を相対化できていないし、しまいには状況に酔って自分たちが特別だと信じて簡単に人を傷つけるだろう。

ああ良くない、良くない。話が脱線してつい偉そうなことを言い出してしまった。これだって自分が高次的に認知していると思い込んでいるだけの自慰行為に過ぎない。


まあとにかく、自分に対してできる限り誠実であるために手を取った本、それがたまたま寝そべり主義者宣言だったわけだ。


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*1:誤解を産まないためにここでいう操作主義とは自分を高める(操作する)ことで成果が上がっていくぞ、という考え方を指す。

*2:先程述べた操作主義の対極ぐらいの認識。今の自分に変化を求めすぎず充分に肯定すること。政治的保守とは関係ない。

愛してやまない堕落

自分が堕落してしまっていると思ったら、案外自分はましな状態であることに気づいて、実はその堕落が愛おしかったというお話。


どちらかというと社会運動(or政治活動)をする人達っていうのかな、社会に疑問を投げかけられる人たちを見て気骨があるなと尊敬することがしばしばあった(その理論の善悪がどうであれ)。彼らなりに合理的な理論を構築して社会に投げかける。受容されようがされまいが、自分を信じて投げかける。尊敬の念と同時に、そんなことを到底できない自分自身にコンプレックスを抱いていたのかもしれない。

自分はもっと社会のプレイヤーとして生きてしまっている。社会的なペナルティが利害関係に合わないがために語れない言葉なんて山程ある。 言える言葉と言えない言葉を随時判断して、抑圧だと感じたとしてもうまく社会に擦り寄せてできる限りの無害な言葉を吐き出してしまう。 生活のために必要なバランス感覚だとは思いつつ、とは言えふとした瞬間生じる違和感だったりを飲み込めるほど従順でもなく、どこにも辿り着けずに言葉が浮遊する。 そんなどこか中途半端な堕落した自分がいるからか、自分を心の底から信じて壁をぶち壊すような言論への憧れがあった。


p-shirokuma.hatenadiary.com


このブログ記事が自分のコンプレックスを代弁してくれたわけでは無いのだけれども、語れる言葉・語れない言葉の絶縁が必ず存在すると認め、社会プレイヤーとして生きるのなら面従腹背の姿勢をとりながら壁を利用し利用されながらより良い道を模索すればいいじゃないかと説いたのが自分にとって痛快だった。

むしろ自分の社会的立場と言論の不自由のバランスを取りながら、ペナルティにならないように言葉を紡いでいければ全然マシな気すらしてくる。社会に擬態したデコイで全然良いんだよな。そういう点では文章って適切な媒体なのかもしれない。 月曜日のたわわの事件を思い出してしまったけど、マンガなどはもっと大変だ。 視覚的に短絡的に解釈されて公衆の面前に晒される機会はよっぽど多いだろう。 読み解くリテラシーが無かろうとその媒体に触れてぐちゃぐちゃに掻き回されてしまうよな。SNSなんかではその歪んだ解釈に簡単に、そして無防備に触れられてしまうし。


amamako.hateblo.jp


幸いまだ文章の世界では美意識を失わない程度に社会と折衷して言葉を語る機会が多く残されている。無理に壁を壊すような直情的な言葉を紡ぐ必要もない。 機会主義的に言葉で最適化せずとも、程よく社会の壁と折衷してして違和感を吐き出し続けられるんだろうな。すごく気が楽になった。


解釈の堕落ってのは既に取り返しがつかないところまで来てはいるのだけれども、もしかしたらその逆でそもそも表現の自由というモノ自体が堕落であって、堕ちる道に現れた腫瘍のような存在がキャンセルカルチャーだったりするのかもしれない。表現の自由が堕ちきれなかったことで吐き出された非人間的な副産物だ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われるのかもしれない。坂口安吾のセリフだ。 とは言え結局人間は堕ちきれずに非人間的な正義、道徳心を振りかざす。 そう考えたら現代社会プレイヤーとしての自分と語れる言葉のバランスを取りながら言葉を紡いでいく作業は愛すべき人間的な堕落であり、自分を許そうと思えてしまった。


こんなの寝ないとやっていけない!

一日活動を終えて疲れて帰宅する

疲れていたとしても関係ない、ソファに寝転がり習慣のように携帯を眺めてしまう

もちろん何か明確な理由があるわけもなく作業のように義務のようにTwitterを開く

ただ疲労感に包まれたそんなときはもれなく理性のフィルターが破れてしまっている

無防備な自分には危険すぎる、溢れ出す情報の嵐

一つ一つの言葉がいとも簡単に心を揺れ動かす

別に後悔はしていない、そもそも後悔できるほどのエネルギーが残されていなかった

ただ漠然とした不安に襲われる

抑えるブレーキが作動しなくて不安のスパイラルに陥ってゆく

メタ的に認知して、流れを断ち切れれば良いのかもしれない

そんなことを考える余裕も無いんだけど、本能的に身体が自分を守ろうと布団にダイブして強制的にシャットアウトさせる


はっと目が覚める

さっきまでの暗かった気持ちが嘘みたいだ

将来の不安なんてこんなものなんだろう、不安に襲われている自分に酔っていただけなのかもしれない

冷静な自分を見つめ返して安堵する

あーあ、疲れ切ってしまうとき、疲れた自分に酔っていると容易に身体がジャックされてしまう

ジャックされていることに気づいてスパイラルを定期的に打ち消さないとその疲労をどんどん溜め込んでさらに気づきづらくなる

気づいたらジャックされた状態がデフォルトになっていく、そうなったら心がぶっ壊れるのも時間の問題だ


自分の脳みそのフィルターは役に立たないのだとつくづく感じさせられる

インターフェイスを通じて流れてくる情報をうまくシャットアウトできなくて、バッファにどんどん溜まっていく

良いことも悪いことも分け隔てなく入ってくる、情報を詳細にまじまじと回想できるのはいいのかもしれないが

別にバッファ容量もそこまで多くないから、情報過多になると簡単にオーバーフローを起こしてしまい脳がプシューっと煙を上げる

煙を上げているときにその不調に気づいてバッファを整理できれば良いんだろうな


そう、こんな話をしたのは久しぶりに自分の脳みそと特性が近い人と話す機会があったからだ

ここで詳細について語っちゃうと恥ずかしいから何も言えやしないのだけれども、文章を書いて誰かが自分自身の実感に近いものを感じてくれたり何かと役に立ってくれたら万々歳だ

ああ、あと自分が実感していることが確かに存在するものであることを証明するために書いているのかも、これは完全にエゴだ