半年ものインターンシップをしにいくのに、どうしてそんな反資本主義的な本「寝そべり主義者宣言」など持っていくのだろうか。
一見すると大いなる矛盾である。せっかく自らをプロレタリアートの地位へと貶め、目の前の労働に没頭する決心がついたというのに。
ただだからこそ持っていくのである。
自分は怖いのだ。労働者としての価値を自分の価値だと思い込んでしまうことが。
そもそも、言語も不自由、労働力も新卒のそれ並みという何の特殊技能も持たずに異国の地で働くのだ。転生もので無双するのとはわけが違う。
資本家に対して圧倒的に不利な立場であるのは言うまでもなく、また慣れない環境で自信を失うことも多いだろう。
また周りには見知っている、心を通わすことができる人間もいないときた。
そのような状況で自己肯定感というものが徐々に削られていき、さらに労働という環境に長時間身を置くにつれて、まるで自分の価値が労働力であると錯覚することが容易に起こりうる。労働者として価値は自分の一側面でしかないのに。
そこで事前にバランスを取ることが重要だと考えた。別に労働者としての成果を上げることに拘らなくて良いと、操作主義*1に陥りすぎずに内側は保守*2でいいのだと。 そこまで無理をしなくても生きていけると。
実際俺は怖い。内なる操作主義に陥りすぎて、自我も美意識も失って自分というハードウェアがジャックされて全く異なるOSが載ったかのように振る舞ってしまうことが。留学から帰国後自我などを失い留学先の文化を全肯定するような、拷問でも受けて精神ぶっ壊れた?みたいな感じ。
滞在期間は6ヶ月であるが、自分自身6ヶ月フルタイムで労働なぞしたことがないから、持続可能な労働をするためにも状況に飲み込まれすぎないのを意識するぐらいが丁度良いのである。
そこで寝そべり主義者宣言に白羽の矢が立った。最早労働を放棄して中国も西側も関係なく全方面に喧嘩を売るぐらいラジカルな本が丁度良いのだ。 幸か不幸かまだ自分は寝そべって生活したいと思うほどには西側の資本主義を嫌悪していないが、染まっていなかったとしても自分の生活を相対化するのに役立つ。
一見するとラジカルな本に取り憑かれたように見えがちだが、自分にとってそれは賢明な選択なのだ。
逆に中立を自称していながら内面的には全く学ぶ姿勢がない方が恐ろしい。 よっぽど自分を相対化できていないし、しまいには状況に酔って自分たちが特別だと信じて簡単に人を傷つけるだろう。
ああ良くない、良くない。話が脱線してつい偉そうなことを言い出してしまった。これだって自分が高次的に認知していると思い込んでいるだけの自慰行為に過ぎない。
まあとにかく、自分に対してできる限り誠実であるために手を取った本、それがたまたま寝そべり主義者宣言だったわけだ。