愛してやまない堕落

自分が堕落してしまっていると思ったら、案外自分はましな状態であることに気づいて、実はその堕落が愛おしかったというお話。


どちらかというと社会運動(or政治活動)をする人達っていうのかな、社会に疑問を投げかけられる人たちを見て気骨があるなと尊敬することがしばしばあった(その理論の善悪がどうであれ)。彼らなりに合理的な理論を構築して社会に投げかける。受容されようがされまいが、自分を信じて投げかける。尊敬の念と同時に、そんなことを到底できない自分自身にコンプレックスを抱いていたのかもしれない。

自分はもっと社会のプレイヤーとして生きてしまっている。社会的なペナルティが利害関係に合わないがために語れない言葉なんて山程ある。 言える言葉と言えない言葉を随時判断して、抑圧だと感じたとしてもうまく社会に擦り寄せてできる限りの無害な言葉を吐き出してしまう。 生活のために必要なバランス感覚だとは思いつつ、とは言えふとした瞬間生じる違和感だったりを飲み込めるほど従順でもなく、どこにも辿り着けずに言葉が浮遊する。 そんなどこか中途半端な堕落した自分がいるからか、自分を心の底から信じて壁をぶち壊すような言論への憧れがあった。


p-shirokuma.hatenadiary.com


このブログ記事が自分のコンプレックスを代弁してくれたわけでは無いのだけれども、語れる言葉・語れない言葉の絶縁が必ず存在すると認め、社会プレイヤーとして生きるのなら面従腹背の姿勢をとりながら壁を利用し利用されながらより良い道を模索すればいいじゃないかと説いたのが自分にとって痛快だった。

むしろ自分の社会的立場と言論の不自由のバランスを取りながら、ペナルティにならないように言葉を紡いでいければ全然マシな気すらしてくる。社会に擬態したデコイで全然良いんだよな。そういう点では文章って適切な媒体なのかもしれない。 月曜日のたわわの事件を思い出してしまったけど、マンガなどはもっと大変だ。 視覚的に短絡的に解釈されて公衆の面前に晒される機会はよっぽど多いだろう。 読み解くリテラシーが無かろうとその媒体に触れてぐちゃぐちゃに掻き回されてしまうよな。SNSなんかではその歪んだ解釈に簡単に、そして無防備に触れられてしまうし。


amamako.hateblo.jp


幸いまだ文章の世界では美意識を失わない程度に社会と折衷して言葉を語る機会が多く残されている。無理に壁を壊すような直情的な言葉を紡ぐ必要もない。 機会主義的に言葉で最適化せずとも、程よく社会の壁と折衷してして違和感を吐き出し続けられるんだろうな。すごく気が楽になった。


解釈の堕落ってのは既に取り返しがつかないところまで来てはいるのだけれども、もしかしたらその逆でそもそも表現の自由というモノ自体が堕落であって、堕ちる道に現れた腫瘍のような存在がキャンセルカルチャーだったりするのかもしれない。表現の自由が堕ちきれなかったことで吐き出された非人間的な副産物だ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われるのかもしれない。坂口安吾のセリフだ。 とは言え結局人間は堕ちきれずに非人間的な正義、道徳心を振りかざす。 そう考えたら現代社会プレイヤーとしての自分と語れる言葉のバランスを取りながら言葉を紡いでいく作業は愛すべき人間的な堕落であり、自分を許そうと思えてしまった。