土地の隙間について

最近東京の街を散歩していると、土地と土地(家と家?)の隙間が異様に狭かったり、それぞれが誰かの土地だったり、窮屈に感じることがある。全てに目的が明確に記されていないといけないような気になってくる。

 

理由は、何かと便利な土地だからか、もしくは土地の価値が高いからか分からないけど、誰かが所有して利用したくなるんだと思う。一方で自分が田舎出身だからなのか(?)、何の目的か良くわからない土地が無いとたまに息が苦しくなったりする。

 

それが理由なのか、自分の憩いの場所が公園だったり川辺だったりする。夏に散歩したり自転車を漕いでると、良くわからないラップをスピーカーで爆音に流したり、ボクシングをしだしたり、バドミントンしてたり、トランペットを吹いていたり、思い思いのことをやってる人たちを見ると安心する。

 

土地を自分に照らし合わせているのかな。自分という存在が一つの目的、役割に固定されないってのは何か良い。ちゃんとお金を貰うためには、毎日自分がやることを固定したり専門性を高める必要があるんだけれど、それをやり過ぎると何でもかんでも意味を求めてしまうような気がする。今はこれをやらないといけない、将来のためにはこれをやらないといけない、と。そうなると湧き出てくる雑念に蓋を閉めないといけなくなって窮屈になるし*1、役割に合った何かをやってないと変に自分を責めてしまいそうになる。

 

適当にのんびりする(そして色んな世界を見る)ためにモラトリアムを多めに過ごしていたが、気づいたらモラトリアム中にも自分の役割を見出すようになりつつある。当たり前だ!修士ってのはモラトリアムと言っても社会的にはより専門性を磨くためのモラトリアムだ。目的や役割が固定化されやすい。ただそれでも学生が楽なのは、学生の最低限があまりキツくないことだ。時間がめちゃくちゃ取られる訳でも無ければ*2、最終的に卒業さえすれば*3、学生の本分を果たしたと言える。その中でだったら、多少社会的な立場と違うことをやっても許されるという暗黙の了解があるようだ。

 

まだ精神的なモラトリアムを謳歌できる立場だし、何なら自分の役割でいっぱいいっぱいになったときはまたモラトリアム的な生活に戻るのかもしれない。

 

ああ、好きなときにコーディングして、ラーメンを作って人に食べて貰って、良くわからない哲学の本を読んだり映画を見てうだうだ議論して、スマブラの結果でジュースやアイスを賭けて、思い出したかのように急にギターをかき鳴らすような生活が愛おしいのだ。。。

 

続く。。。

*1:雑念は本業に対しては邪魔な物なのだろう

*2:分野による。法科大学院などの資格のための大学院では、目標が明確で目標もキツいため感覚的にモラトリアムになりにくい

*3:何なら卒業しなくてもその時学生という立場を持っていれば充分儲けものだろう