物語に酔えなくなってもできる仕事ぐらいがちょうど良い

以前書いたこれに対する裏テーマのような記事。

yapatta.hatenablog.com

 

 

最近、大きな物語への陶酔から覚めたとしても、その分野で働き続けて大丈夫だと思える仕事に就くぐらいがちょうど良いような気がしてきた。

 

多くの人達は物語に完全に酔っていなくても酔ったふりをして、バランス感覚を持って生きている。どこかで冷めているけど、それをやった方が社会的に有利な立場で居続けられるってのを身体で理解している。何ならあまり考えないようにしている。

 

「私は御社でこのようなことをして世界に笑顔を届けたいと思っています!」と書いているエントリーシートを見てしまった。その職種から世界に笑顔を届けるには論理が飛躍しすぎていると思うし、どのぐらいの人が本気でそう思ってるからわからないけど彼らなりに物語を作って世界に取り込もうとしている。

 

一方僕なんかもっと愚かで正直だから、物語に酔って一生懸命やってるうちは本気で世界に笑顔を届けようとすら思ってしまうわけだが、急にトカトントンという声が聞こえて自分がやっていることが空虚に思えてしまう。そして過去の持論を撤回して、メタ的な視点を持ったかのようにインテリぶってしまう。ただ個人というものは矮小であり、結局社会の歯車として動き続けてる分には大なり小なりあまり変わりがないのである。

 

自分はそんな感性を持ってしまっていて、今さら向き合い方なんてものを変えることも難しいから、ハテどうするべきかと悩んだ。自分が乗っかかる物語を失った状態でも、どんなに空虚に思ってても、生活するためにお金は稼がないといけない。組織に属するのだったら組織の物語に曲がりなりにも同調して面従腹背であろうと利益を上げる必要がある。あらゆるモノが資本主義化する世界に反旗を翻して、脱成長を掲げてコミュニストに転じても良いわけだが、そんなことをしてもちっとも自分の生活は良くならないし、幸か不幸か自分はその思想を押し通すほど物語に陶酔できないのだと思う。またトカトントンという声が聞こえてきそうだ。

 

となると自分なりの折衷案として、物語に酔えなくなっても惰性で努力できることを仕事にするぐらいがちょうど良いような気がしてきた。自分は操作主義的な自己啓発には嫌気がさしてしまったし(自己決定論、自己責任論ってものに染まった時期もあったが、それは案外決められた個人、周りのかのパラメータ上で踊らされているだけかも知れない。ただ強者達に都合が良い理不尽ゲームとも言える。)、とは言え社会的に自己決定論の恩恵を受けている方だし、社会変革を願って活動家になるほどのエネルギーも持ち合わせていないから、現実のそのようなルールに惰性で従うのである。現状に違和感を抱きながらもそこそこ有利な立場にいる宙ぶらりんな存在だ。

 

物語なんか無くなっても利害関係で動く世界ならまだしも、物語を作らねば成り立たない業界なんてのもある(具体的な話をしてしまうと自分が吊し上げられてしまう気がして恐ろしい)。まあ、ある行為が変に高尚なものへと祭り上げられてしまっているのだが、逆に偽善のような物語で人を従わせなければ成り立たない裏返しにも思えてくる。とは言え押し付けられる物語を理解しながらも、自分が今ここで向き合っているコト自体が楽しかったら全然その業界に居たい。楽しいと思えることは貴重だ。問題は自分にそんなポストが充てがわれるかどうかという話だが。

 

まあとにかく、陶酔できなくてもその物語の文脈を掴み取って、利害関係に合う接点を見つけることが一番生きやすそうだ。生活するために多少目をつむるのは仕方が無い。

 

最後に僕は物語を作り出して周りを巻き込める人に本当に敬意を示したい(それが悪い方向に進むとサリン事件のようなモノが起こるから注意は必要だが)。世の中を変えたり何か一つの分野で大成する人たちに抱く(安易な)イメージと多少の実感。逆に自分には無理なのだろうと半ば諦めている。どうしても途中でトカトントンしてしまう。自分ができることなぞ、物語の文脈を汲み取って皮肉るぐらいだ。