ブが書けなくなった

ブログが書けなくなった。

書きたい文章が書けなくなったこと、細かい心理描写を上手にできなくなったこと、それすらも文章にすればブログ記事を少しは書ける気がしてきた。前に進める気がした。

 

普段ブログを書くときの大まかな流れは、何かしらを経験しその結果感情が揺さぶられて、頭の中からどんどん文章が生成されるというものだった。

 

逆に言うと、最近日常に起こっていたことがブログにするほど面白くないことなのかもしれない。

ただそれはおかしい。面白い話題は思い出せばあるはずなのだから。。

 

つい2週間前にはインド旅行をし、アグラという観光地で無事にぼったくりに遭遇した。俺たちは一人4000円の布を買わされた挙げ句、その布をモスクにお供えさせられた。結局残った物は何も無かった。ただガイドと露天商が結託して俺たちを帰させない戦略が一枚上手だったということが分かった。このお供えは貧しい人のためだとか露天商は言いながら、布を使い回してまた売っていそうだった。

インドを旅行していると、本当か嘘かが大して重要じゃなくなってくる。政府公認かどうかも最早重要じゃない。観光地に行くと政府公認の警備員が勝手に写真を撮ってきたり、頼んでもいないのにガイドを始めて金を取ってくる。こんな突然ガイドをしてくる訳でもなくこちら側から雇ったガイドや運転手は彼らで日本人御用達のお店に連れて行き、外国人価格として高い金を取ってくる。生活がかかっているからか、彼らはめちゃくちゃにがめついのだ。

現地の情報をもっと集めたり、相場を理解したり、真贋判定ができれば良いのだが、数日しか滞在しない観光客が現地の人間には絶対に勝てない。そもそも何でも疑い過ぎては、観光してるのに全然楽しめないだろう。そもそも100%損とか100%得と決めることはできない。ならばそれが多少損をするかもしれない行為でも、取りあえず決断して経験してみてクソだったね、とゲラゲラ笑うぐらいの方が楽しい。

損得って確かにお金を指標として見ると数値で評価できるものだと錯覚するんだけど、精神的な問題の方が大きいと思う。あまり過去の損得に引っ張られない方が、次の決断をよりクリアにできるのだろう。決断してどんどん先に進んで行った方が結果的に得られる物が多いんだ。自分は変に完璧主義になったり、過去に引っ張られて行動できなくなるときがある。そうなりそうな自分を再認識して遮断して前に進めただけでも、インドに行った収穫があると信じている。

 

フォーマットは何であれ、自分の所感を文章として残すと、自分が感じていることを信じることができるのだと再実感した。

この過去一年は自分の感性が曖昧で、自分でも何を考えているか分からなかったり、同時に自分の所感を信じることもできなかったのだと思う。

不満があって何とか現状を変えたいのだけれど、変に大人になったふりをして飲み込もうとしていた。飲み込むというのは、感性を曖昧にすることだ。考えてもどうしようもないから何を考えているか分からなくさせる。俺はそういうのが苦手な一方で、そこら辺を上手くやる(大人なように見える?)周りの友人たちが人生の数段階上を進んでいることへのコンプレックスがあった。上手くいっていない自分の原因を、大人になったふりをすること、感性を曖昧にすることで解決しようとした。

けど、これが上手くいかなかった。自分の感性を曖昧にすればするほど、自分の価値観を信じられなくなる。そうしたら、より一層他人のことが羨ましくもなるし、自分が上手くいってないように感じられる。

この上手くいっている、いっていないの感覚も先程話した損得の感情と似ている。上手くいっていないことの原因を、大人になれないことに見出そうとしたが(この仮説自体間違っている気がしてる)、結果それで自分が楽しくないのならそんなこと直ぐにでもやめるべきなのだ。

俺の場合、大人になったふりをすることで周りに壁を作るようになったし、余計なプライドが増長してしまった。

そして俺は自分のみずみずしい感性が好きだったのだと再実感した。良いことも悪いことも感性で受け止めながらも、決断して前に進みたいんだ。そうしたら、勝手にブログをまた書けるようになってるのだろう。自分が今取り組んでいる研究も信じられなくなっていたが、それもブログが書けなかった理由と近いのだろう。光明が見えたのでまああと一年研究は頑張ってみる。

 

こんな風に最近やっと自分の中で納得がいき、無事こうやってブログを書くことができた気がする。

因みに、以下の本たちは再びブログを書くきっかけになれた本たちでもし興味があれば読んでみて下さい。遠き落日は、如何に野口英世が愛されるダメ人間だったか分かる痛快な小説で、傲慢と善良は言わずもがな婚活の渦中の心理をこれでもかと思えるほど炙り出した小説です。