社会性は低くても良いが最低ラインを持つに越したことない

どうもyapattaです。

ふと社会性について思うことがあって何となく書いてみる。社会性を獲得するのはまじで難しい。。。

 

社会性が必要の無い生活というのは非常に快適である。自分と似たような人達と付き合い、お互いに言いたいことを言い合って自分のペースで生活できる。

ただどうしてもそのような生活を続けると局所に陥りがちで他の環境に適応できなくなってくる。また新しい情報も入ってこない。たまには自分が快適だと思わない環境にも身を投げ出して順応することが大事になってくる。

とはいえあまりに環境が違いすぎると慣れるのに自分が疲れてしまうか、壁を作ってしまう。そのため自分の中で快適さのラインを作ることが良さそうに思える。どこまでは楽で、快適で、辛くて、何とかなるかである。そのラインに応じて無理のない程度に順応できたらいい。

このラインは、自分のメンタル的な状況や経験、環境によって時折変化するので、アイデンティティとして固く誓うよりは、定期的にアップデートしていくのが良さそう。広がったり狭まったりする。

ただ難しいこととして、自分が持っている快適さのラインが多くの他人と異なる場合に、自分の快適さのラインを押し通し過ぎてしまうと、段々人が離れていってしまう。それでも問題ないと開き直るのでも良いが、やはり他人の助け無しで生きていくのは難しいので自分の快適さのラインを度外視して他人に合わせる必要がある。勿論それは疲れることなのだが、そういうのも必要だぐらいに割り切った方が意識はしない分疲れも少ない。何なら割り切れるようになったらもうそれは快適さのラインが更新されてるということだろう。多くの辛い状況というのは好くない方の考えに意識が引っ張られ続けている場合が多い。

 

まあこうやって自分が壁を作らない程度に程よく社会性ラインを更新していけたら社会でうまくやっていけそう。自分の快適さを押し通し過ぎると、そもそも社会性ラインを更新するイベントにすら出会えなくなって局所に陥ってしまうのと、より自分に快適な方へ進んでしまう。

意識的に快適さと社会性のバランスを取ろうと思う。自分を守るための社会性であったと、最近になってやっと気づいた。

 

続く。。。