書評レビュー: ジェンダーと脳

最近読んだ本

これ自分の中でツッコミどこがあったからせっかくだし書評でも。

イスラエルのテルアビブ大学神経科学・心理学教授の人が書いた本である。

内容として前半では、脳科学の観点から脳は性差より個体差の方が大きく、男脳・女脳と明確に分かれる事はなくモザイクであることを強調していた。

後半では、ジェンダーの偏見から解き放つために教育だったり具体的行動についての著者の主張という形だ。


脳がモザイクってある主張まではよかった。ただ後半で彼女自身の主張に対するはてなが自分の中に浮き上がってきた。

子供をジェンダーから解放するために彼女が行っている教育の部分で、

数年後、子どもたちがあるご家族とジョギングに行ったとき、そちらのご家族の娘さんが途中で走るのを止め、女の子だから走れないと言った。喜ばしいことに、私の子どもたちは娘さんに、君の説明は理由にならない、だってぼくたちはジョギングする女の子を知っているからと話した。

ここ、ぞっとする。つまり走るのを止めたのは走ることに疲れたからで女の子だからという理由は走ることを止めるためのただの口実であったように思える。それを感じ取って合わせられる人間であったら良いのに、その言葉をジェンダーに結びつけて字義通り違うと一刀両断してしまうわけだ。同意しなくても共感ぐらいしてもいいじゃないか。ジェンダー問題に注力するあまり、人の気持ちを考えられない人間を生み出してしまっていることを誇らしげに語っているのが怖い。

著者は男性向けか女性向けかが意図的に仕組まれていることに気づけるように注意して観察するように子どもに教育することで、ジェンダー差異のおかしさに意識的に気付けるように子どもはなると言うが、人間的な優しさを犠牲に彼女の思想の尖兵を育成しているかのように思える。子供の感性にバイアスを注入と。

上の文章を書いてから、教育がそもそも無意識下で感性にバイアスを注入する行為なのかな〜と再認識し始めた。多分思想は時代や地域や個人的な原体験を元に強調されるし、それを教育という形で次世代に伝授する。

言ってみれば当たり前のことだ。そうやって世の中が回ってきたんだ。 当たり前のことなのに、その思想というものが極端になってしまう、つまりマイナスの面なんかを見ちゃうと自分が次世代に思想を伝授するって行為が恐れ多いもののように思えてしまう。学校などで関わってきた教育者の思想の餌食になる経験をしたら尚更である。どうしてあんなに正しいと自信を持っていられるかわからない。

こんなことを考えてしまうとどうも八方塞がりになってしまう。どうやら自分は教育というものの理想を高く持ちすぎたようだ。考えすぎて何もできなくなると、やっているときよりも悪い事態に陥るってことが往々としてありそうだ。

大分話が脱線したな、自分が気になった部分はジェンダー教育をするあまり人間性を犠牲にしていることだった。

これに気になったというかラジカルに捉えてしまうのは、無意識に自分がジェンダー格差を容認しているからそう思えるのか、本当にラジカルであるだけなのかわからなくなってくる。自分の潜在意識をわかりやすく言語化できない。

まあ気になったと言っても自分はジェンダー教育を批判しているわけではない(というかジェンダー関わらず個々人の望みが何かしらの要因で邪魔されることは防ぎたい)。本質ではない何か社会的な性質に関わらずやりたいことが邪魔されない社会になって欲しいと願っている。本質が何だがわからないんだけど。

こうやって文章を書き上げたあとに、これを読んだ人が僕のバイアスに気づくのかも知れない。自分がバイアスを持っていることが怖いと思いながら、どうやら自分だけでは気づけない部分ってのはあるようだ。だから案ずるより産むが易しってね、こんな文章を今日も書いてしまったんだ。

続く...