さだまさしの「償い」を使った道徳の授業について

さだまさしの「償い」という歌がある。

主人公が雨の夜に運転をしていたところ、人を引いてしまいそれ以降精一杯努力をし続けて遺族に償いをし続けて一切返事をしなかった遺族もその努力に対して手紙を返して、と。

説明をするとどうも情報量を減らしてしまいそうなので以下歌詞。

www.uta-net.com

 

何とも暗く悲しい歌なのだが、何故かこの歌をたまに思い出す。中学二年か三年の道徳の授業で担任がこの歌について扱ったのだ。当時の担任は我々生徒に償いきれない罪を犯したとしても、それを反省して償いを続ける大切さを語りたいという意図でこの歌を取り上げたのだが、何かがズレている気がしてならないのだ。

 

まず何故中学生にここまでとんでもない出来事をしてしまった後の精神状況をシミュレーションさせないとならないのか?

実際に警視庁の令和3年中の交通事故の発生状況を見ても仮に自分を25~29歳であると仮定して見たところ原付以上運転者の免許保有者10万人あたりの事故件数は424.9人である。つまりその世代で0.42%しかない。1クラス40人、学年7クラスあっても一人加害者が出るかどうかという話だ。

www.e-stat.go.jp

 

つまりこんな局地的で限りなく起こる確率が低い状況を子供たちにシミュレーションさせるよりも、どうやったら自分達が幸せに生きられるかを考えさせる方がよっぽどよい。

法律上、人を轢き殺したら加害者、被害者はどうなるかとか、万が一自分が加害者になるときに備えて保険が存在するという話や、そもそもそれ以外に発生しうるリスクへの対処方を教えた方がよっぽど有意義な気がしてならない。何で勝手に自分がどん底に陥ったときの話を想定してるんだよ!というのと、お気持ちも大事だが法治国家で生きている以上、法律に照らし合わせた上で権利、義務を果たすことの重要さを学ばせた方がよっぽど有意義な気がする。

 

それにその起こした状況で、自分がどう思うべきかという答えを既に先生が用意しており、生徒はその考えに従うべきだとする姿勢のどこが道徳の授業か、という疑問もある。

道徳という言葉を広辞苑で引くと「ある社会で,人々がそれによって善悪・正邪を判断し,正しく行為するための規範の総体」と書かれている。先生から与えられた善悪・正邪だけを正しいと鵜呑みにするような人間を育成したところで、彼らが果たして善悪・正邪を(自己)判断して正しく行動することはできるだろうか?

 

そんな道徳の授業を深夜急に思い出してしまい筆が進んで書いてしまった。この道徳の授業も自分が社会を学ぶ上での反面教師だったと今になって思ってる訳だが、歳を重ねるにつれてまた新しい発見が生じるのかもしれない。

 

続く。。。