俺は異国の地で働くのに寝そべり主義者宣言を持っていく

半年ものインターンシップをしにいくのに、どうしてそんな反資本主義的な本「寝そべり主義者宣言」など持っていくのだろうか。

一見すると大いなる矛盾である。せっかく自らをプロレタリアートの地位へと貶め、目の前の労働に没頭する決心がついたというのに。

ただだからこそ持っていくのである。

自分は怖いのだ。労働者としての価値を自分の価値だと思い込んでしまうことが。

そもそも、言語も不自由、労働力も新卒のそれ並みという何の特殊技能も持たずに異国の地で働くのだ。転生もので無双するのとはわけが違う。

資本家に対して圧倒的に不利な立場であるのは言うまでもなく、また慣れない環境で自信を失うことも多いだろう。

また周りには見知っている、心を通わすことができる人間もいないときた。

そのような状況で自己肯定感というものが徐々に削られていき、さらに労働という環境に長時間身を置くにつれて、まるで自分の価値が労働力であると錯覚することが容易に起こりうる。労働者として価値は自分の一側面でしかないのに。

そこで事前にバランスを取ることが重要だと考えた。別に労働者としての成果を上げることに拘らなくて良いと、操作主義*1に陥りすぎずに内側は保守*2でいいのだと。 そこまで無理をしなくても生きていけると。

実際俺は怖い。内なる操作主義に陥りすぎて、自我も美意識も失って自分というハードウェアがジャックされて全く異なるOSが載ったかのように振る舞ってしまうことが。留学から帰国後自我などを失い留学先の文化を全肯定するような、拷問でも受けて精神ぶっ壊れた?みたいな感じ。

滞在期間は6ヶ月であるが、自分自身6ヶ月フルタイムで労働なぞしたことがないから、持続可能な労働をするためにも状況に飲み込まれすぎないのを意識するぐらいが丁度良いのである。


そこで寝そべり主義者宣言に白羽の矢が立った。最早労働を放棄して中国も西側も関係なく全方面に喧嘩を売るぐらいラジカルな本が丁度良いのだ。 幸か不幸かまだ自分は寝そべって生活したいと思うほどには西側の資本主義を嫌悪していないが、染まっていなかったとしても自分の生活を相対化するのに役立つ。

一見するとラジカルな本に取り憑かれたように見えがちだが、自分にとってそれは賢明な選択なのだ。

逆に中立を自称していながら内面的には全く学ぶ姿勢がない方が恐ろしい。 よっぽど自分を相対化できていないし、しまいには状況に酔って自分たちが特別だと信じて簡単に人を傷つけるだろう。

ああ良くない、良くない。話が脱線してつい偉そうなことを言い出してしまった。これだって自分が高次的に認知していると思い込んでいるだけの自慰行為に過ぎない。


まあとにかく、自分に対してできる限り誠実であるために手を取った本、それがたまたま寝そべり主義者宣言だったわけだ。


shiroran5.base.shop

*1:誤解を産まないためにここでいう操作主義とは自分を高める(操作する)ことで成果が上がっていくぞ、という考え方を指す。

*2:先程述べた操作主義の対極ぐらいの認識。今の自分に変化を求めすぎず充分に肯定すること。政治的保守とは関係ない。

愛してやまない堕落

自分が堕落してしまっていると思ったら、案外自分はましな状態であることに気づいて、実はその堕落が愛おしかったというお話。


どちらかというと社会運動(or政治活動)をする人達っていうのかな、社会に疑問を投げかけられる人たちを見て気骨があるなと尊敬することがしばしばあった(その理論の善悪がどうであれ)。彼らなりに合理的な理論を構築して社会に投げかける。受容されようがされまいが、自分を信じて投げかける。尊敬の念と同時に、そんなことを到底できない自分自身にコンプレックスを抱いていたのかもしれない。

自分はもっと社会のプレイヤーとして生きてしまっている。社会的なペナルティが利害関係に合わないがために語れない言葉なんて山程ある。 言える言葉と言えない言葉を随時判断して、抑圧だと感じたとしてもうまく社会に擦り寄せてできる限りの無害な言葉を吐き出してしまう。 生活のために必要なバランス感覚だとは思いつつ、とは言えふとした瞬間生じる違和感だったりを飲み込めるほど従順でもなく、どこにも辿り着けずに言葉が浮遊する。 そんなどこか中途半端な堕落した自分がいるからか、自分を心の底から信じて壁をぶち壊すような言論への憧れがあった。


p-shirokuma.hatenadiary.com


このブログ記事が自分のコンプレックスを代弁してくれたわけでは無いのだけれども、語れる言葉・語れない言葉の絶縁が必ず存在すると認め、社会プレイヤーとして生きるのなら面従腹背の姿勢をとりながら壁を利用し利用されながらより良い道を模索すればいいじゃないかと説いたのが自分にとって痛快だった。

むしろ自分の社会的立場と言論の不自由のバランスを取りながら、ペナルティにならないように言葉を紡いでいければ全然マシな気すらしてくる。社会に擬態したデコイで全然良いんだよな。そういう点では文章って適切な媒体なのかもしれない。 月曜日のたわわの事件を思い出してしまったけど、マンガなどはもっと大変だ。 視覚的に短絡的に解釈されて公衆の面前に晒される機会はよっぽど多いだろう。 読み解くリテラシーが無かろうとその媒体に触れてぐちゃぐちゃに掻き回されてしまうよな。SNSなんかではその歪んだ解釈に簡単に、そして無防備に触れられてしまうし。


amamako.hateblo.jp


幸いまだ文章の世界では美意識を失わない程度に社会と折衷して言葉を語る機会が多く残されている。無理に壁を壊すような直情的な言葉を紡ぐ必要もない。 機会主義的に言葉で最適化せずとも、程よく社会の壁と折衷してして違和感を吐き出し続けられるんだろうな。すごく気が楽になった。


解釈の堕落ってのは既に取り返しがつかないところまで来てはいるのだけれども、もしかしたらその逆でそもそも表現の自由というモノ自体が堕落であって、堕ちる道に現れた腫瘍のような存在がキャンセルカルチャーだったりするのかもしれない。表現の自由が堕ちきれなかったことで吐き出された非人間的な副産物だ。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救われるのかもしれない。坂口安吾のセリフだ。 とは言え結局人間は堕ちきれずに非人間的な正義、道徳心を振りかざす。 そう考えたら現代社会プレイヤーとしての自分と語れる言葉のバランスを取りながら言葉を紡いでいく作業は愛すべき人間的な堕落であり、自分を許そうと思えてしまった。


こんなの寝ないとやっていけない!

一日活動を終えて疲れて帰宅する

疲れていたとしても関係ない、ソファに寝転がり習慣のように携帯を眺めてしまう

もちろん何か明確な理由があるわけもなく作業のように義務のようにTwitterを開く

ただ疲労感に包まれたそんなときはもれなく理性のフィルターが破れてしまっている

無防備な自分には危険すぎる、溢れ出す情報の嵐

一つ一つの言葉がいとも簡単に心を揺れ動かす

別に後悔はしていない、そもそも後悔できるほどのエネルギーが残されていなかった

ただ漠然とした不安に襲われる

抑えるブレーキが作動しなくて不安のスパイラルに陥ってゆく

メタ的に認知して、流れを断ち切れれば良いのかもしれない

そんなことを考える余裕も無いんだけど、本能的に身体が自分を守ろうと布団にダイブして強制的にシャットアウトさせる


はっと目が覚める

さっきまでの暗かった気持ちが嘘みたいだ

将来の不安なんてこんなものなんだろう、不安に襲われている自分に酔っていただけなのかもしれない

冷静な自分を見つめ返して安堵する

あーあ、疲れ切ってしまうとき、疲れた自分に酔っていると容易に身体がジャックされてしまう

ジャックされていることに気づいてスパイラルを定期的に打ち消さないとその疲労をどんどん溜め込んでさらに気づきづらくなる

気づいたらジャックされた状態がデフォルトになっていく、そうなったら心がぶっ壊れるのも時間の問題だ


自分の脳みそのフィルターは役に立たないのだとつくづく感じさせられる

インターフェイスを通じて流れてくる情報をうまくシャットアウトできなくて、バッファにどんどん溜まっていく

良いことも悪いことも分け隔てなく入ってくる、情報を詳細にまじまじと回想できるのはいいのかもしれないが

別にバッファ容量もそこまで多くないから、情報過多になると簡単にオーバーフローを起こしてしまい脳がプシューっと煙を上げる

煙を上げているときにその不調に気づいてバッファを整理できれば良いんだろうな


そう、こんな話をしたのは久しぶりに自分の脳みそと特性が近い人と話す機会があったからだ

ここで詳細について語っちゃうと恥ずかしいから何も言えやしないのだけれども、文章を書いて誰かが自分自身の実感に近いものを感じてくれたり何かと役に立ってくれたら万々歳だ

ああ、あと自分が実感していることが確かに存在するものであることを証明するために書いているのかも、これは完全にエゴだ

大学時代に立てた仮説と検証

大学の卒業が無事確定して大学の方でやることが大体無くなったので実家でぬくぬくしているyapattaです。

今日は大学時代に立てた仮説と検証についてのお話。


まず自分は大学入学時に学生時代をモラトリアムとして捉えることがあまりできなかった。大学時代にしかできないことをやろうとは思えなかった。というよりは、東京で食べていくために何か武器となるものを身に着けたかった。当時は東京で一旗揚げたくて何とか帰らなくて良い道を模索していた。

そんな風に考えていたから高校時代に少し齧って挫折したプログラミングを再び始めたのは自然な流れだった。 強いプログラマにでもなれば職にも困らないし、都心で働ける。年収も高そうだし、漠然と格好良くも見えた。

そこで取り敢えず大学時代でそれが自分の特技になるぐらい強いプログラマになろう、という目標を持って大学生活を開始した。 サークル選びに失敗?*1したせいもあって、一人で黙々とRails Tutorialってやつを進めていた。取り敢えずウェブ開発ができるようになったら強くなれるのかぐらいの感覚。 一人で続けるのは辛い。皆がサークル活動を楽しんでいる中、家に籠もってコードを書き続けるんだ、浪人生活とそんなにやっていることが変わらない。

ただノンサーである自分に同情してくれたのか、予備校時代の友人が競技プログラミングの活動を毎週大学でやっていることを教えてくれてそれに参加することになった。 流れで6月にICPC国内予選*2というのに出た。始めたてで2完できたことに変な自信を持ってしまい、またICPC Asiaに出場した先輩が魅力的であったため競プロを続けることになった。 アジア大会出場って実績でめちゃくちゃイキりたいなとも思っていた。 このときはAtCoderすらまだ知らなかった。


夏休みまでに曲りなりに自作のウェブアプリ(Twitterクローンみたいな単純なCRUDアプリ)を作れるようになったのと、高校時代の友達がインターン(アルバイト)してみたらって言っていたので、Wantedlyインターン先を探すことになった。幸いにも中小企業の新規ヘルスケア部門みたいなところに拾ってもらい、そこで働くことになった。最低賃金の時給が出るところで取り敢えず安心した*3。 因みにこのとき、AtCoder灰色、Railsの個人制作物が一つという能力値にも関わらず採用してもらった。今思うとよく採ってくれたなと思う。そこで一年ぐらい開発をしていた。来客へのお茶汲みとか名刺読み込みとか、開発以外の雑用も色々やった(?)。雑用をやりたくなさすぎて、力付けたいとずっと思っていた。一緒に働いていた学生、社員の方々は本当にいい人たちで彼らが居なかったら今の自分が居ないと言っても過言ではない。 医学部の学生だけど自分よりもプログラム書けてめちゃくちゃ頭良いなと思う先輩がいて、彼に食らいつきたくて必死だった。 社員に勧められてブログを書き始めたりもした。説明能力が乏しいのを指摘されて、文章を書いて頭を整理する訓練をするように言われたからだ。気づいたらブログを書くこと自体が楽しくなってしまったし四年も続いていて感慨深い。

しんどかった開発業務が段々できるようになって会社での居心地も良くなったけれど、エンジニアの方々が結構辞めていたのと(当時メインでコードを書く社員が居なくてフリーランスの方がインターン生に仕事を教えていた!)、事業が成長しなさそうという実感と、技術力の向上に限界を感じていたのもあって大学2年の7月頃に自分も辞めてしまった。 僕の将来を考えて背中を押してくれた社員の方本当にありがたい。お世話になりっぱなしである*4。 辞める口実として、新しいインターン先が決まったというのがある。運良くICPC Asiaに出場できたこともあり、その実績+一年の開発経験を引っ提げてインターンに応募したのだ。結果を示せば今いる環境を変えられる、常に新しい環境に飛び込めるぐらいの選択肢を残しておくと精神的にも安定するという実感を強く持った。 社員数が10人も居ない中小企業からの2000人超えの大企業へのジョブチェンジである、大出世だ。


ICPC Asiaに出場したいなって話はチームメイトの友人と大学2年の4月ぐらいから話していた。当時のチームがAtCoderでいう緑緑水というレベルでとてもまともに戦っても国内予選を勝てるとは思えなかったから、過去のコンテスト結果からアジアに出場できるボーダーラインを定めて、それを超えられるように過去問を反復練習していた。具体的にはABCという簡単な問題たちを早解きして逃げ切るというものだ。同じ問題数を完答した場合は合計解答時間が短いチームが上位になる。空きコマと土日、友人と時間を測って一緒に練習していた。目標に向かって熱中していて本当に楽しかった。本番でもその練習が功を奏してギリギリ逃げ切ることができた。アジア出場が決まったときは本当に喜んだ、大学生活で一番喜んだ瞬間かもしれない。


話をインターンに戻そう。2週間の短いサマーインターンであっても労働自体は辛かった(週5で毎日8時間労働は長すぎる!!)。 しかし社員の方々が毎日ランチを奢ってくれたり、飲み会に行ったり*5してそれをモチベに働いていた。コロナ前の良い文化だったりする。

インターンが終了した後も他のインターン生とアルバイトの方とちょくちょく関係が続いて、一緒にハッカソンやコンテストに参加したり、輪講をやったり、はたまたキャンプやスキーに行ったりでお世話になりっぱなしである。 常に本気でかつ雰囲気良く一緒に開発できるの本当にありがたいんだよな。また一緒に何か作りたい。


サマーインターンが終わり秋になって11月のアジア大会に向けて競プロを再び頑張り始めたわけだが、精進を続けてもコンテストに毎週出てもAtCoderのレートが上がらなく(何なら下がったかもしれない)自暴自棄になっていた。競プロを頑張ることがしんどくなっていたが、大会に向けて頑張らなければならないと身構えてしまいで八方塞がりになっていた。JAGの合宿だったりで強い人達を見すぎて自分を見失ったり(とはいえ優しい人たちが多かった、未だにお世話になる人もいる)、本当に自分はアジア大会に参加して良いのか?って疑ったりもしていた。とは言え11月の横浜大会、12月のマニラ大会共にチームメイトのおかげもあって何とか乗り切れた。マニラではそこそこ良い結果を残せて自分たち結構やるんだなあと感心していた。現地の大学を観光したり現地の大学生スタッフと英語で交流したりで、漠然と日本以外に住んでみたくなった。同時に英語力の無さを痛感したわけで、これから英語がボトルネックになるであろうことを実感し始めた。


アジア大会終了後、競技プログラミングを2ヶ月ほど休止していた。ただTwitterを見ていると毎週のコンテストが気になってしまい、気持ちを抑えられなくてコンテストに参加したら過去最高スコアが出てしまった。嬉しくなって再び精進を再開した。憑き物が落ちたかのように気が楽になって、競プロが楽しくなった。みるみるレートが上がった。この経験のおかげか、しんどい状態を一過性のものであると少しはメタ的に捉えられるようになったのかもしれない。


大学2年生の3月頃に新しいスタートアップでのアルバイトを始めた。今回はシリーズC企業。シード期でもなく上場企業でもないということで新しい経験を積みたかった。 他のエンジニアと要件を話し合ってアプリの新機能追加を実装したりで、自分ができる仕事の粒度が大分大きくなった気がする。 仕事自体ほぼリモートであって寂しさを感じることも多かった。8ヶ月ほど働いたが物理出社が最初の1週間ほどだった。僕の性格からなのか、リアルで会わないで心を通じ合わせたと感じられるようになるのは難しい。 このとき流行り風邪が蔓延しており外出活動が制限されたこともあり、この時期につよつよエンジニアになるぞぐらいの気持ちで意気込んでいた。 大学の授業がリモートになったこともあり、前述したインターンで知り合った友人たちとハッカソンに参加しまくった。知らない人達とオンライン飲み会できるビデオ通話アプリ、スマートウォッチから取得した生活情報をもとに友人と健康スコアを競い合うアプリなどの本格派から、ハッカソンの主催趣旨が謎すぎて主催者を皮肉ったアプリなど色々作った。このメンバーで学生順位ギリギリでISUCON予選突破できた。以降サーバチューニングコンテストの楽しさに目覚めた。ISUCONというのは8時間の制限時間内でウェブアプリケーションが高トラフィックのアクセスを問題なく捌けるようにチューニングするコンテストだ。総合格闘技のような感じがする。今まで経験した色んなコンピュータ関連の知識が生きるし、競プロよりも全然ブルーオーシャンということもありそっちを頑張る方が勝ちやすい気がした。


大学三年生になるタイミングで大学の友人からオンプレサーバ管理のアルバイトを紹介された。大学関係の仕事で学生たちで自治的に活動できると聞いて、興味を持って一緒に働き始めた。 自分のネットワーク、インフラ経験が本当に不足していたから、勉強してひいひい食らいついた。未だにネットワークは良くわからないし友人に迷惑をかけ続けている。クラスタ内のGPUモニタリングツールを開発したり、障害対応したり、最新のExploitが来ていないかログ解析したり、ウェブエンジニアとしては経験できないよりディープなことを学ばせてもらった。これらの知識がISUCONだったりに役立った気がする。


そういえば大学三年の後期にはセキュリティキャンプというものに参加していた。年齢制限でちょうど最後の申し込み時期だからダメ元で参加申し込みした。正規表現の仕組みに強く興味を持って学んで実装していたことが功を奏した。 論文の成果を社会実装してOSSに組み込むという経験が本当に楽しくて、研究というものに憧れを抱いていた。今になって研究自体が楽しいというよりは社会実装が楽しいだけだったのだけれども。 三ヶ月間ほどその道のプロに指導を受けながらチーム開発をすることが楽しかった。平日授業で土日ほぼそれに費やしたから相当ハードだったが、まだ世界に無いものを作るという実感が自分をワクワクさせた。確か最終成果発表の日にはやぶさ2のカプセルが地球に着地して、キャンプ終了も合わせてで感慨深くなっていた。 というかセキュリティキャンプ界隈の大人がギークで技術を本当に楽しんでいる人しか居なくて憧れを抱いた。


そして四年に近づいたこともありいよいよ研究室に配属された。ただ結構しんどかった。新人研修の輪講に時間が縛られて(週3~4×4時間で輪講があった!輪講準備の時間も追加でかかった)、個人開発だったりに思うように時間を割けなかった。論文輪講も自分が読みたい論文を選んでしまったがために先輩にも頼れずハードモードになった。結果研究室にうまく適応できなくて精神的にも身体的にも体調を崩してしまい、2~3ヶ月ほど研究室を休んだ。ただこれで大分元気になった。休んでいる間に友人が働いている会社の手伝いをした。インフラ、アプリケーションの構成を勝手に考えて構築するのが楽しかったし、中の人達が人間臭くて面白かった。当時研究室での活動には嫌気が差していたが開発自体は楽しかったのは救いだった。研究室に戻り先輩たちに助けられながら何とか卒論を乗り切ることができた。やはり偏屈な人間同士の会話は面白かった。先輩との会話で追従する必要もなく等身大で話せるのは本当にありがたかった。卒論のテーマは先生に言われたものというよりは、自分が提案したものを先生と相談し合いながら決定された。興味が湧くテーマを自分で決められたのは幸いだった。自分で決めたテーマなら責任持って実装しきろうと思うし、うまくいかなくても自己責任だから気が楽だ。誰か他人を責める必要もない。


マニラに行ったとき英語力の無さを痛感して、流行り風邪で自粛中に英語の勉強を開始した。 実践的な環境で足掻くのが一番力がつくという実感からか、コロナ後に留学しようと漠然と考えていた。その準備としてオンライン英会話とTOEFLの勉強をしていた。 長期で行ける大学の交換留学あたりを考えていたのだがどうやら自分のGPAが足りなくて申し込めず、代わりに半年ほど行ける海外インターンのプログラムに焦点を当てた。 TOEFLの勉強自体は辛かった。どうしても地道な反復作業というのが難しい。 ただTOEFLで何とか点数を取れて、現地の企業の社員と面接をしてコーディング試験を受けて無事現地に行けることになった。 日本以外で働くことができるという実感を湧かせたいし、社会に出る前の時間があるうちに経験できることは貪欲に経験したい。 4月末から楽しみである。 ビザだけはしっかり取っておこう(まじで事務作業が苦手)。



タイトルの仮説と検証に関して。強いプログラマになるというか実績を作らなくても別に都心で生活できるし(何なら都心への憧れも年々減少していっている)、強いプログラマになることが必ずしも年収に繋がらないけど、何かしら武器を持っていると自分の人生を自分で決定できる実感は持てるし(環境を変えるフットワークがめちゃくちゃ軽くなった気がする)、面白い人達と繋がることができる。 面白い人達で面白い案件みたいなのを持っていって面白い作品を皆で作るということはこれからもやっていきたいし、面白いことができるぐらいに自分の能力が錆びつかないように磨いていきたい。 何かと人に必要とされるのも悪い気がしない。


取り敢えず文章を供養したし、これからまたぼちぼち頑張ろうと思う。

続く。。。

*1:高校時代にラグビーをやっていた延長でレスリング部に入ろうと思っていて、4月中それの練習にずっと行っていたら他のサークルに入る機会を失った。レスリングとプログラミング両立が難しいと断念して結局入部しなかった

*2:コンテストの仕組みをざっくりと説明する。8問のアルゴリズムの問題が出題され、正解数と解答速度の速さでランキングを競う。問題を解くプログラムを書いてテストを実行し、テスト結果を提出して正しかった場合チームに得点が入る。

*3:会社によっては業務委託として学生と雇用契約を結ぶことで最低賃金以下で働かせるという採用ハックがある、自分の実力に自信が無い学生がうまく使われるみたいなことがザラにある

*4:一方で退社したいことを社長に伝えたら怒られてSlackから一度追い出されてしまうみたいなこともあった

*5: 酒カスのインターン生と同じペースで飲んだら泥酔してしまい電車を何往復もしてしまい家に帰れなかったのは良い思い出

子供部屋おじさんたちの闘争

昔々あるところに一つの大きな家がありました。

そこには仲が良い夫婦が住んでいました。夫婦の間に子供が二人生まれてすくすくと成長していきました。

二人の子供は自分の部屋が非常に好きだったため、大人になってもその部屋に住み続けると言いました。

夫婦は、充分な広さの部屋に子供が住んでいることを知っていたので許可しました。

子供部屋に住み続けた二人は結婚した後もその部屋に住み続けました。

家族が住む分にも充分広い部屋だったので、無事子供夫婦は子供部屋夫婦になりました。

そしてそれぞれの夫婦には子供が生まれて子供部屋家族になりました。

それからこれが一族の風習になって、そこで生まれ育った子供は親が住んでいた部屋を分割した部屋に住むことになり、大きな争いもなく一族は繁栄しました。

ただ一つ問題が生じました。元々大きな家とはいえ代が重なるごとに家族数は増えていき部屋一つの面積がどんどん狭くなっていきました。もし親が子供を二人産むことを繰り返したら、倍々で増えてしまうのです。

この一族はその対策として1人以上子供を産んではならない一人っ子政策というものを設けました。

これにより部屋を分割する回数は減り、部屋面積の低下も防げるはずでした。

しかし、それでも度重なる部屋の分割により部屋はどんどん狭くなっていき、一族内での不満は溜まっていきました。

そんなとき不満が爆発する事件が起きます。

彼は一族の中では初めて結婚することを選びませんでした。娯楽が充実した現代でわざわざ結婚する意味を見いだせなかったのです。

彼は自分の子供子供子供...部屋を一人で使い切ることができました。

しかし他の結婚して子供を設けた家族から見たらたまったものではありません。普通三人で日々の苦労(主に部屋の狭さ)に耐え偲んでいる中、同じ部屋面積で悠々と独身ライフを送っているわけです。

そこで遂にお前の部屋面積を少し寄越せよと他の家族が独身貴族に向かって言ってしまい、部屋の片隅の実効支配を始めてしまうのです。

実効支配と言う言葉は大げさで、実際には自分の荷物を少量置くぐらいなのですが、それで良い気になった他の家庭持ちも別の部屋の実効支配を始めてしまいました。

今まで一族で守りきっていた秩序が遂に崩壊してしまったのです。

部屋内の荷物は入り乱れ、散乱するようになってしまいました。どこの家庭の荷物だかも良くわからなくなってしまいしょっちゅう家庭間で揉め事が起きました。

最早家庭の子供が更に部屋を分割する制度も形骸化してしまい、力があるものが広い部屋を取り、力が無いものはただ追従するしかなくなってしまいました。

子供部屋戦国時代の始まりです。如何に広い部屋を自分たち家族が取れるかそんなことばかり考えるようになりました。元々同じ一族だったのに。

しかしこの子供部屋闘争もついに終わりを迎えます。

築年数が経過し過ぎたのと度重なる分割によるリフォームに耐えられなくなり遂に家が崩壊してしまったのです。

そこで一族は気づきました。こんな小さな家の中で闘争しても意味がないと。自分たちは何をやっていたのだろうかと悟ります。

そして崩壊した家を後に、二度と争いが起きないぐらい充分に分割できるもっと大きな家を建てようと考えました。

そして夢に向かって彼らは進みだしました。

おしまい、おしまい

近所のラーメン屋

大学入学時初めて入居した賃貸

そしてとりあえず探す飲食店

親元から離れて自由に食事ができるんだから、好きなものを好きなだけ食べてやるぞと意気込んでいた

そして見つけたラーメン屋

徒歩圏内に2つあった

一つは家系のお店でもう一つは二郎インスパイアのお店


まず最初に家系のお店に行った気がする。5月頃。 入学してから大分時間が経っていたが、そもそも入学したてのときはどこかしらのサークルの新歓で飯を奢ってもらえるから、わざわざ近所で食べる必要が無かった。

どろどろしていてさらに家系の中でもかなり塩分が高そうなスープ。しょっぱすぎてそれ以来行かなくなってしまった。別に不味いわけではなかったのだけど、能動的に行こうと思えるほどの味ではなかったし、あとライスが有料だったの痛かった。微妙にコスパが悪かった。内装が昔ながらのラーメン屋という感じでどこか懐かしさを思い出させてくれた。小学生のときに父と行ったラーメンショップのような。

まあその家系のお店は気づいたら潰れていて、そこにはテナント募集という文字の張り紙が。丁度コロナが始まった辺りのときかな。ご冥福をお祈り申し上げます。一回行っただけなのに未だに味を覚えているのだから何だかんだ凄いラーメン屋だったのかな。


次に二郎系のお店。6月頃が初デビュー。 順番を待つ長蛇の列。目の前を通り過ぎるだけで鼻に入ってくる力強い豚骨の匂い。 入学したての未熟者の自分でも、こやつ中々やるな。。と密かに関心を抱いていた。

ただ常に混んでいるってのは厄介だ。家に近い店となると、自炊がだるい、遠くに行くのが面倒くさいといった消極的な理由で選ぶわけだ。人気店を並ぶ心持ちでは決して無いのだ。 そんなんだから行く気があまり起きなくて6月まで持ち越しになってしまった。

ただ周りの人たちが推しに推すわけだから流石に近くに住んでいるのに勿体ないなあと思い、重い足を引きずってそこへと向かった。一時間ぐらい待った気がする。ただ待つことに不思議とストレスを感じなかった。ディズニーランドのアトラクションに乗る前ぐらいの気分だった。充満する匂いを嗅ぎながら、そして眼の前のラーメンに全集中している客を横目で見ながら自分が食べている姿を永遠に妄想していた。

そしていざ自分の番がやってきた。大ラーメンを頼んでいた。自分は胃が大きい方だし、こんぐらい食べれるだろと調子に乗っていた。 いざ目の前にラーメンが運ばれたとき、唖然とした。こんなに量が多いとは。リサーチしておけば良かった。。

ゴワゴワの太麺と、化学調味料が入りに入ったようなスープ。肉厚で柔らかい豚肩ロースチャーシュー。相性の良さを認めざるを得なかった。ただ胃への負荷が圧倒的だった。

結局食べきれなくて残した。麺だけは食べて、モヤシをスープ内に埋めてごまかした。店主へのせめてもの礼儀だった。 食べた後も苦しくて家に帰ってずっと放心状態だった。

ただこのラーメン屋恐ろしくて、食べた後は二度と行かないと決心するわけだが、一週間経ったぐらいで無性に食べたくなるのだ。何かの中毒症状か?ってぐらい。 そして再び行って二度と行かないと決心するのだった。なんと弱い決心であることか。

そんな感じで大学一年のときは結構行っていたのだが、気づいたら行かなくなっていた。 他に美味しいお店を開拓するようになって、そこまで負荷をかけて食べる必要がないことに気づきつつあったのかもしれない。

3月で卒業してしまうし、一回挨拶がてら行ってみようかしら。そして忘れない中毒症状が再び植え付けられるんだ。

ゆらゆらしている

目を閉じるとそこに雪山があった。午後の2時ではあるが雪が降り注ぎ視界が悪い。数メートル先も分からない。視界が悪い一方で、降り注いでいる雪が徐々に積もったお陰か、雪質は段々柔らかくなってきている。エッジをかけながら体重を上下左右に調整する。身体がゆらゆらする。爪先、踵に交互に力を入れて向きを変えながら前に進む。しかし時に身体がバランスを崩してしまい転倒してしまう。思いっきり胸を打って二回転。先程食べた昼食が胃の中でシェイクされる。吹き飛んだゴーグルを取って、視線を下に向ける。吹雪に隠れながらどんどん小さくなっていくカップルたち。どうかしている。こんなに痛くなって、さらにお金を払ってまで位置エネルギーの無駄遣いをしている。とは思いながらも滑るしかないことも同時に悟る。起き上がって再び降っていく。少しずつできないことができるようになる。つい楽しくなって滑り終えた矢先、先程のことを忘れたかのように喜喜としてリフトに乗り込む。そしてまた転んで呆然とする。何度も何度も回想される。部屋で携帯を見ているはずなのに意識は携帯に向かっていない。頭の中が未だに雪山を滑っているようにゆらゆらしている。床に仰向けになっているのに、滑ってるかのように頭だけピクピクしている。布団までの距離は2メートル。ボードに乗って滑ってしまえばほんの一瞬の距離なのに家の中では無限遠に感じられる。いざ床に寝そべったが最後、首、腰至るところが痛い。力が入らない。湿布を肩に貼って寝ようと思ったのに手が届かない。どうしようも無く携帯に文字を打ち込む。バッテリーが10パーセントを切った。そして気づいたら自分のバッテリーも限界を迎えて床に倒れ込んでしまった。